テレビ番組『マツコ&有吉の怒り新党』の中のコーナー『新・3大〇〇調査会』にはたくさんの神回がある。その一つが2013年4月に放映されたスルヤ・ボナリーだ。
スルヤ・ボナリーは、フランス出身の女性フィギュアスケート選手で現在はプロスケーター。幼少時は体操選手としても活躍し、フィギュアスケートに転向すると、ヨーロッパフィギュアスケート選手権5連覇するまでに成長する。
彼女の最大の魅力はジャンプ。頭一つ抜けた身体能力と体操で培った柔軟性を武器にアクロバティックな演技は人気を集めた。フィギュアで黒人の選手は非常に珍しいため、目立つ存在だった。
しかし、世界選手権では頂点に立つことはなかった。四回転ジャンプは回転不足と言われ、幻となった。(その後、世界初の四回転ジャンプの称号は安藤美姫のものになった)
最後の舞台となったのは1998年長野オリンピック。ショートプログラムでは、体の状態からでは考えられないほどに上出来な演技を見せるも得点は伸びず、さらに芸術点はあまりに低く記者から「得点が低すぎないか」と問われると「慣れたし泣き疲れた」と語った。この言葉の裏に想像を絶する黒人差別があったことが伝わってくる。
続くフリーの演技では精彩を欠いてしまう。彼女自身もう上位入賞の可能性はなくなってしまったことを悟った。すると、何かを決心したのだろう。自身の得意技である『バックフリップ』を披露。見事に片足で着地し成功。
しかし、競技会でバックフリップは反則だった。当初の予定にはなかったのではないだろうか。反則と分かりつつも披露したのは、ボナリーの矜持か。譲れない何かがあったのかもしれない。その日最大の拍手はボナリーに送られた。
余談だが、そもそも競技会でバックフリップが禁止なのは危険が最大の理由だった。スケート靴で滑りながらの後方宙返りは難易度が高すぎて、そもそも出来る選手は女子ではボナリーくらいだった。
しかし、ボナリーはいともたやすく決めてしまう。しかもボナリーは片足着地できてしまうから、観客としては危険と思えないものだった。
競技後にボナリーの指導者であり母は、怒ることもなく暖かくボナリーを迎えた。ボナリー陣営は誰も得点を見ることはなかった。
その後、2002年の不正疑惑問題に端を発し、客観的な基準を設けた新採点方式が行われるようになった。当時のフィギュアスケートは審判の印象でおこなわれてきており、芸術点と技術点には明確な基準がなかった。最大の被害者はボナリーと言える。
奇しくも、新採点方式ではジャンプが得意な選手が有利な得点配分となった。もしも、ボナリーが10年遅く生まれていれば違った結果になったかもしれない。
物語はここで終わらない。会場でバックフリップの瞬間を見ていた16歳の少女がいた。その少女はボナリーの演技に感激し、自分も「ルールに縛られて自分らしさを失うより、人々の記憶に残るスケーターになりたい」と考えるようになる。
その少女の名は、荒川静香。少女は成長し、8年後の2006年トリノオリンピックで金メダルを獲得するに至る。代名詞は『イナバウアー』。得点にならない演技だとわかりつつも、イナバウアーをプログラムに取り入れた。その演技が観客を魅了したのは言うまでもない。