日本最年長オリンピック金メダリスト蒲池猛夫(射撃)の偉業までの道程

日本射撃界唯一の金メダルは、1人の男性の髪を「復活」させた。

蒲池さんは1968年メキシコ大会で五輪初出場を果たした。当時32歳。技術的には既に世界トップクラスで、関係者の期待もあった。しかし結果は12位。「安斎さんは、試合のあったその日に頭を丸めたんですよ」(蒲池さん)。当時日本ライフル射撃協会理事長だった安斎実氏は、七三分けに整えていた髪を切ることで、無念さを表した。以来、ロサンゼルス五輪まで実に16年間、五分刈りのままだった。

「あの頭を見るたびに、責任を感じていました。私のせいなんだなあと。何とかメダルをとって恩返ししたかった」。それから蒲池さんは五輪に挑戦し続けた。5大会連続の代表は日本最多記録。48歳でロサンゼルスに行った時には、もう1歳半の孫がいた。

ロサンゼルス五輪はそれまでと、心理状態が違っていた。「壮行会をいくつかやってもらったんですが、席上で『日の丸を揚げてきます』と挨拶していたんですよ。それまではなかった」。自覚しないまま、頂点に立つ予感が「おじいちゃんガンマン」の心に起こっていた。

実はその2年前に1度は現役を引退していた。草刈り中に、鎌で誤って右手中指と人さし指を切った。診断は伸筋腱(けん)の断裂。引き金を引く大事な指に8週間、ギプスが装着された。選手から教官へ転向命令が出た。「でも、自分では競技生活を諦めるなんてことはなかった。怪我したその日に左手で鉄アレイを持って訓練していた」。そのうち若手が伸びてこないこともあって、復帰を要請された。

1度は一線を退いたこともあって、余計な欲が抜けていた。競技前半で4位。「以前だったらメダルを意識しただろうが、平常心で撃てた」。後半の2日目も好調を維持し、600点満点中595点で終了した。「特別高い点数ではなかったが、上位がミスをして落ちた」。技術、精神力、運をすべて動員した末の世界一だった。

蒲池さんの金メダルを見て、安斎氏は「もう死んでもいいよ」とまで言ったという。そして髪を伸ばし始めた。安斎氏は既に72歳になっていた。

蒲池さんは1997年、久しぶりに東京での新年会に出席した。「安斎さんは私の顔を見て『おお蒲池君、最後の別れに来てくれたんだな』って」。金メダルをわがこと以上に喜んでくれた恩人は、同年12月に他界した。【五輪取材班】(2000年3月11日付)

引用元:https://www.nikkansports.com/sydney/rensai/kamachi.html

蒲池さんの五輪全成績

1968 メキシコ 12位
1972 ミュンヘン 33位
1976 モントリオール 12位
1980 モスクワ 不参加  
1984 ロサンゼルス 1位

◆蒲池猛夫(かまち・たけお)1936年3月、満州(現中国東北部)生まれ。宮崎県高原中卒業後、自衛隊に入隊。61年からピストル競技を始め翌年自衛隊体育学校に1期生として入学。68年メキシコ五輪から5大会連続で日本代表。89年に定年となり、宮崎沖電気スポーツセンター所長に就任。日本ライフル射撃協会コーチを務めた。2014年12月に永眠。