平尾誠二追悼文「運を支配していた選手」

平尾誠二さんが53歳の若さで亡くなった。訃報はYahoo!ニュース等で大々的に話題になった。私個人としては直接現役時代のプレーは見たことはなかったが、いまだに残る伝説の数々…、名勝負や歴史的勝利を紹介しながら追悼文を書き残したい。

理不尽に勝つ

理不尽に勝つ

  • 作者:平尾 誠二
  • 発売日: 2012/04/16
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

プロフィール

1963年(昭和38年)1月21日生まれ
京都府京都市南区出身。
伏見工業高校卒業。
高校3年時に全国高校選手権大会(花園)で優勝。
同志社大学商学部卒業。
史上初の大学選手権3連覇に貢献。
1982年に史上最年少(19歳4ヶ月)で日本代表に選出。
1986年、神戸製鋼に入社。日本選手権で7連覇を達成(V1~V3までは主将)。
ラグビーワールドカップ第1回(1987年)、第2回(1991年)、第3回(1995年)出場。現役時代のポジションは主にスタンドオフ及びインサイドセンター。
1998年1月、現役を引退。
その後、神戸製鋼コベルコスティーラーズ総監督兼任ゼネラルマネージャーに就任。
日本代表キャップは35。

栄光の大学選手権3連覇

同志社大学時代の大学選手権3連覇(1982年~1984年)は名門の明治大学や早稲田大学でもいまだに成し遂げられていない。いまだに平尾誠二擁する3連覇時代の同志社大学が創部史上最強と言われている所以だ。

早稲田の「ヨコ」「展開」、明治の「タテ」「重戦車」の評価に対して、同志社のプレイスタイルは「自由」と表現されていた。

当時の早稲田や明治が弱かったわけでなく、のちの日本代表選手も何人もいたが、同志社大学が3連覇。まさに偉業といえる。大学3連覇の記録は、帝京大学が7連覇を成し遂げるまで不動の記録だった。

当時日本最強の北の鉄人

しかし最強と言われた同志社大学時代でも日本一にはなれなかった。なぜなら当時「北の鉄人」と呼ばれる新日鉄釜石(現:釜石シーウェイブス)がいたからだ。1978年から1984年まで前人未到の日本選手権7連覇。同志社大学は大学王者として3度挑戦し、3度敗れる。

新日鉄釜石は松尾雄治、洞口孝治、千田美智仁、森重隆など多数の日本代表を擁していた黄金の世代。国立競技場で岩手県からきた応援団が大漁旗を掲げて応援する姿は圧巻だったといまだに語り継がれている。

栄華を極めた神戸製鋼と日本代表

その後、平尾誠二さんは神戸製鋼に入社し、同部の7連覇に貢献。見事新日鉄釜石にリベンジを果たした。8連覇を絶たれた新日鉄釜石はその後衰退していき、「最強」の称号が神戸製鋼になった。

日本代表では1989年のスコットランド戦での歴史的勝利のメンバーにも名前を連ねる。スコットランド相手に勝てたのは2016年現在でもこのときだけだ(対戦成績1勝10敗)。

そして1991年のラグビーW杯でのジンバブエ戦での歴史的勝利。その後、日本代表がW杯で勝利するには24年の歳月が必要になった。ジンバブエ戦にいたのも平尾誠二。日本代表の黄金期と平尾誠二の全盛期が重なっているのは果たして偶然か。

日本代表監督

1997年~2000年にかけて日本代表監督を歴任。監督時代に通称「赤鬼」アンドリュー・マコーミックを主将に指名。初の外国人主将は賛否両論があったが、従来のルールにとらわれない大胆な改革を推し進めてきた。

まとめ

伏見工高、同志社大、神戸製鋼でいずれもチームを日本一に導いた。その時代で栄華を極めたチームにはいつも平尾誠二がいた。宿沢広朗の言葉を借りれば「運を支配していた」選手なのかもしれない。現在の日本代表のW杯の活躍によるラグビーブームとは違う熱量が当時あったそうだ。

まだ53歳。早すぎる死に驚きとショックを隠せません。2019年の日本開催を見られなくなったことは本人が一番悔しかったと思いますが、いまはただやすらかに眠ってほしいと願うばかりです。合掌。

平尾誠二 名言録 人を動かす120の言葉

平尾誠二 名言録 人を動かす120の言葉

  • 作者:平尾 誠二
  • 発売日: 2019/08/29
  • メディア: 単行本
 

ラグビー普及にも尽力していましたが、ビジネス系の本も多数書いていました。